2021年8月31日

丸亀城の石垣の下から古い石垣

投稿者: 片原
こんにちは~。
熊本城にも丸亀城にも復元に寄付をしたことのある片原です。




先ほど、Yahoo!ニュースを見ていて知ったのですが、
丸亀城の復旧工事また遅れるんですね。
崩落部分から江戸時代の頃の石垣見つかる 丸亀城石垣復旧事業 ’23年度末の完了を断念【香川・丸亀市】


でも、これ、大歓迎です。
何故かというと、ワクワクするから(^_^;ゞ

しかし、あれ、江戸時代の当初からの石垣じゃなかったんですね!

丸亀城の完成は、1602年頃でした。
関ヶ原の戦いが1600年ですから、
大方の決着がついた後ですね。
大坂夏の陣は1615年の事ですから、この13年後には完全に豊臣政権は滅亡し、徳川の世になります。

市のサイトにも公式に伝えられている伝説では、このような悲しい伝説があります。

石垣にかかわる悲しい伝説

羽坂重三郎は、丸亀城の石垣を完成させた功労者で、常に仕事をするときは裸になって一生懸命働くことから「裸重三」と呼ばれました。殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけあって完璧だ。これでは、空飛ぶ鳥以外にこの城壁を乗り越えるものはあるまい」とご満悦でした。ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒を下されば、容易に登ることができます。」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁を登ってしまいました。殿様は、重三郎を生かしておけば来敵に通じた場合、恐ろしいことになると考え、城内の井戸の底を重三郎に探らせて、その際に石を投じて殺してしまいました。その伝説の井戸が二の丸井戸です。





まぁ正直、私はこの伝説自体、眉唾だと思っています。
当時の武士は、領民を守ることで支持を得ていたはずなので、
生駒氏も山崎氏もそこまで自国の領民に対して酷いことをするほど暗愚な城主ではないと思っています。
きっと後世に大袈裟に書き換えられたものだと思っていますが、
ただ、それだけ、「この先まだ何があるか解らない!」
と神経を研ぎしませていた当時の緊張した様子がうかがえます。


1600年頃に作っていたお城ということは、
一番実践に即した、高い技術を結集した築城技術、石垣の

そんな石垣が!ですよ。

山崎氏の時1643年に、
大改修を命じられています。
その頃に回収されたのが現石垣なのか。
全く解りませんが、
羽坂重三郎が完成させた石垣は古い今回発見されたものなのか。

専門家の方に、全体像を解明していただきたいです。


ホント丸亀城は、
何度見ても壮観な、地元民の誇れる
お城です。

時間が掛かるのは良いので、
誇れる丸亀城をもっと誇れる丸亀城にしてください!

しかし、改めて思うのは、今の時代で直すのに何年もかかるのに、
400年以上前、重機もない時代に、
1595年に着工して、1602年に完成させた当時の技術すごいですよね~。
感心してしまいます。


今回は単なる地元愛の記事でしたw




グランテストにお問い合わせのある方はこちらからお願いします。